ニヒリズムを超えていくために

少し前に、熊野純彦『サルトル:全世界を獲得するために』(講談社、2022)を読みました。サルトルの『存在と無』を中心とした解説本です。サルトルは学生のころに読んだきりで、結構忘れていましたが、少しだけ懐かしく(苦笑)思い出したりしました。が、しかし……。
https://amzn.to/4rs2Wpn

サルトルのわかりにくさは、一つには、その独特(当時はそう感じられました)の言い回しの妙のせいだと思われます。例えば、カフェで不在の人物を想起するような場面で、その人がいた過去と、いない現在が断絶していることを、サルトルは「切断面」とか呼んだりします。でも、切断面なんて言われると、逆にその主観的判断はどういう空間的位相(トポス)を考えていて、なにゆえに「面」だと言っているのかがわかりません。さらにその過去と現在の違いを、「時間の裂傷」などと言ったりもしますが、ではなぜそれは「傷」なのか。このあたりも漠然としていたように思います。

「存在の表面における無の煌めき」などの表現も同様です。外部に存在するもの(即自)を認識する主観が、外部にではなく存在する「自己」(つまり対自)をも同時に、かつ前提として、非定立的に認識していなければならないとしても、そのことを単純に「無」だとか「無の煌めき」だとか呼ぶのは、そもそもあまり意味をなさないのではないか、という疑問もあります。

また、そこから「対自に絡みついている無」を「対自の自由そのもの」とみなし(これもよくわからないのですが)、ゆえに「存在者をすべて無にできる」(存在者についての懐疑を徹底できる)とするあたりなどは、対自が含み持っている非定立の自己認識の話からはもはや逸れてしまっている印象しかないのですよね……。さらにその上で、その自由をもとに状況を、世界を選びとれと言われてもなあ……。やはりちょっとサルトルは個人的に合わない感じが濃厚です(苦笑)。

……そんなことを改めて解説本の読後感としてもったのですが(サルトルの著作を読んだあとも、似たようなモヤモヤが残ったのを思い出します)、この「無」についての話は、その後に江川隆男『哲学は何ではないのか:差異のエチカ』(ちくま新書、2025)を読んで、少しクリアになりました。これは小著ながら、とても刺激的な良書と感じられました。
https://amzn.to/46nYBLA

西洋哲学の全体は、これまで「同一性」を中心に形成されてきて、そちらを特権化し差異を劣ったものとみなしてきたとする著者は、同書で静かに、その転換を訴えています。同一性(実体)は事物の本質とされ、位階序列の上位をなし、二元論的・二項対立的を煽り、差異をなすものを貶め、排除してきたというわけです。差異とされるものを否定するニヒリズムの思考、ですね。これはプラトンのイデア論の図式です。ホワイトヘッドが言ったという、西洋哲学はプラトンの注解にすぎないという言葉が、何度か繰り返し引用されています。

しかし、一方でそうしたスタンスが、あまりにも多くの軋轢や社会問題を結実させている現実があり、ゆえに同一性中心の哲学を転換する途、別の道筋を探らなくてはならない、と同書は訴えます。それが差異を肯定する反・哲学の途だというわけです。

同一性を中心に考える場合、主観の認識対象としての実体が措定され、その周りに様態が、あるいは偶有が付加されるというかたちになります。サルトルが「無」と表現する対自あるいは対他なども、対象の二重性(個体と一般化された事物)と主観の二重性(主観そのものと他者の中にある「私」、つまりは共同主観性)にほかならず、総じてそれが差異を否定するニヒリズムであることに変わりありません。ここで重要なのは、むしろその「実体からその中心性を奪って、逆に実体を様態のまわりで回転させること」であると著者は言います。

著者の訴える差異の哲学は、ドゥルーズから採られた思考実践であり、ドゥルーズにより解釈されたスピノザ、ニーチェなどが系譜として挙げられます。ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」、その発展形としての属性の一義性(スピノザ)、(永劫)回帰の一義性(ニーチェ)。それらを通じ、さらにその先へと進むような思考様式を鍛え上げようというのがここでの企図なのですね。二元論・二重性が消尽していくような未来、「自然が作動する配列そのもの」、「超越論から並行論への転換」、まだ現れたことのない思考様式。ユートピア的?そうかもしれませんが、たとえかすかでも、希望の光はあってほしいものです。

フィクションの枠、というもの

独特の理屈が幅を利かす田舎の情景が、作品内でなにがしかの変容を遂げるような映画を、配信で立て続けに2本ほど見ました。今どきの作品だけあって、単に二項対立的な型(都市/地方とか、世代間とかの)にすんなり収まるようなものでは当然ありません。

一つは『熊は、いない』(2022)。『人生タクシー』などで知られるイランの監督ジャファル・パナヒの作品です。
https://www.imdb.com/title/tt20205236/

イランから出られないパナヒ監督は、トルコから偽パスポートで出国しようとする男女の映画を、イラン国境近くの村からリモートで指示を出して撮影しています。ところがそのうち、その村の古くからの風習によってある男性の許嫁になっていた女性が、別の男性と一緒にいるところを、パナヒが写真に収めたのではないかとの嫌疑が持ち上がり、村を挙げての騒動に発展します。

その村の話も、トルコからの出国話も、最初はドキュメンタリーっぽいフィクションという感じなのですが、やがてジャンルが微妙かつ曖昧に溶け合ってしまうような、微妙な展開を遂げていきます。トルコ側の話の女優さん(?)が、メタフィクションであるかのように、パナヒに文句を言い出します。そのせいで、それまでのフィクションの枠が微妙に判然としなくなるような、いわば軽い宙吊りの状態にもっていかれます。この演出は興味深いですね。国境近くの村の話にも、その宙吊り感は同じように影響をもたらさずにはいません。村の情景がほんの少し、フィクションから浮き上がって見えてくるとでもいいますか……。

ちなみにこの作品完成後、パナヒ監督は当局によって本当に身柄を拘束されてしまったといいます。このところの反体制デモの中、監督がどうしているのか気になるところです。

もう一つは、『おんどりの鳴く前に』(2022)。パウル・ネゴエスク監督作品。ルーマニアの監督ですね。
https://www.imdb.com/title/tt14820500/

職務もどうでもよく、ただ家を売って果樹園を所有したいと願う田舎の警察官が主人公です。そこに新人警官が配属されてきます。折しもめずらしく村で殺人事件が起きるのですが、張り切る新人をよそに、村長や田舎の司祭らとつるんで日々をやり過ごす主人公。しかしやがて、新人警官が半殺しの目にあったり、権力者の私利私欲のために土地を負われる女性を見たりしたことで、忘れかけていた若いころの義憤に火がついていく……。

最後の10分くらいが意外なほど映画的に豊かになるという、ちょっとおもしろい作品です。それまで登場人物たちが醸していた、リアルな(現実にありそうな)狭い地域に巣食う人々の、どこかもやっとした空気感のようなものが、いきなり寓話のごとく、ある種定型的ともいうべき造形へと一気にシフトする、という感じでしょうか。フィクションの枠が「結晶化」(硬化?)する、と言ってもよいかもしれません。

フィクションの枠が揺らいだり、硬化したり。どちらも試行錯誤を重ねての、探求の成果であるように思えます。映画製作の世界も、そういうところで静かに息づいているのかもしれません。

情緒・情動・身体感覚的な近未来へ

青土社の『現代思想』は、このところ毎年のように、1月号で総覧的・展望的な特集を組んでいますが、2026年は「現代思想のフューチャー・デザイン」というタイトルで、人文・社会系の諸分野の「将来的な展望」を特集していますね。
https://amzn.to/4qSMFJG

やや細分化されている現代の学問領域を反映するかのように、全体的にそれぞれ少し窮屈そうな世界観で議論が展開していく感じがしますが、それでも面白そうな話はいくつかあります。たとえば宗教学的な観点からの、将来の日本の宗教のあり方を予想した論考(岡本亮輔)。論理などではない、情緒にもとづく実践が、日本だけでなく、世界的にも、これからの宗教的な動向をつくっていくのではないか、と指摘されていて、なかなかに興味深いです。情緒はときに乗り越えがたいものである以上、組織体としての宗教が衰退しても、宗教的なもの自体は存続するだろう、という見立てですね。

家族はどうでしょうか。家族を制度の中心ととらえる感性も根強いですけれど、一方で、もはやそれはかっちりした一枚岩のものではなくなって、いろんな面で多様化し、従来的な価値観に照らすと、ほころびが出始めているように思います。収録の論考(永田夏来)には、「もはやそれは不動の単位ではなく、人々の関係編成を支えるインフラとして解体・再配置されつつある」との指摘があります。情緒というか、親密さそのものが複数化していると説いているわけですね。家族というものが、固定的単位というよりも、ゆるやかな関係の網の目のようになっていく未来。それは思いのほか近いものなのかもしれません。

デジタル化の流れの中で、視覚・聴覚に大きく遅れをとっているのが嗅覚だという指摘もありました(岩崎陽子)。嗅覚は「化学感覚であることに加え、身体経験、記憶、社会文化的文脈を束ねる総合的な知覚である故に、単純なデータ化や抽象化に抵抗する」といい、ゆえにそれは「現代科学の方法論が抱える限界を露呈」しているのだといいます。著者はさらに、これは単に技術だけの問題ではなく、「未来の人間理解を左右する分岐点」でもあろうだろう、と論じています。

高齢化社会の中で、アンガーコントロールの重要性が取り上げられることも多くなってきましたが、もうひとつ、嫉妬(エンヴィー)のコントロールもきわめて重要だとする論考もあります(源河亨)。嫉妬には固有の問題性があるといい、それは相手に対する正当性のない敵意を抱いてしまうことだといいます。そのため、ありもしない「相手の不正」をでっち上げてまで、敵意を正当化しようとする、というのですね。フェイクの義憤が事後的に練り上げられるというのは、なるほどなあと思います。

こうして並べてみると(もちろんほかにもいろいろな論点がありますが)、なにやら今後の近い将来において大きな問題圏を作りそうなのは、情緒・情動・身体感覚といった、とても身近で個人的・内密な領域かもしれない、と思えてきます。そうしたものは、現状では一元論的な記述でのアプローチしかなさそうに見えますが、なにかオルタナティブなアプローチの可能性というのはないのでしょうか(ガブリエル・タルドが説く、よりいっそう細やかな統計とか??)。そのあたりのことを、個人的にも、今年もまた引き続き考えていきたいと思う次第です。

新年は「奇想」三昧から

前回に引き続き、年末年始の「年越し本・年越し映画」から、印象に残ったもののメモを。今回はどれもある種の「奇想」(語弊を覚悟で言えば、ですが)という感じがするものばかりです。もちろん、作っている側にとっては奇想でもなんでもないのでしょうけれど。

カルロ・ロヴェッリ『すごい物理学講義』(竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出書房新社、2019)は、有名になった超弦理論のオルタナティブとして示された、ループ量子重力理論について、一般向けに解説・紹介したものです。こういうまったく畑違いの本を読むのはとても楽しいですね。普段まったく接しない世界なので、一種の奇想譚のように読めてしまいます(笑)。
https://amzn.to/4sCqF7G

このループ理論というものは、時間や空間を結晶格子状の離散的なものとして捉えるのだそうで、時空にはそれ以上分割できない最小単位がある、ということになるのだとか。また、それに倣うと、宇宙開闢のビッグバンもまたビッグバウンス(伸びたり縮んだりするという)の宇宙観になり、ブラックホールにしても、中に入ったものが縮減して消滅するのではなくなる、という話です。これは面白いですね。著者も同書で繰り返し触れていますが、デモクリトスとかの原子論(!)が、回り回って形を変え、蘇ってくるかのようです。

もう一つ、こちらは小説集ですが、オラフ・ステープルドン『火炎人類』(浜口稔訳、ちくま文庫、2025)を読んでみました。なんといっても中編の表題作(1947年の作)、その発想に舌を巻きました。
https://amzn.to/49Ms4AX

ステープルドンは、『スターメイカー』でもまさに奇想の権化という感じでしたが、こちらも同じように素晴らしいですね。語り手の友人からの手記というかたちで、石の中に長く閉じ込められていた、太陽由来の火のような生命体との、ファーストコンタクトおよびテレパシーでの交流が描かれます。はたしてこれはその友人の妄想なのか、またその生命体が実在するなら、敵なのか味方なのか。なかなかスリリングな展開が楽しめます。

これに触発されて、積読になっていた『最初にして最後の人類』を、ここぞとばかりに読み始めました(笑)。以前、スポメニック(東欧のアーティスティックな戦勝記念碑)を延々と映し出すヨハン・ヨハンソンの映画を見て、とても気になっていた原作です。

年末年始には映画も配信で数本見ましたが、玉石混交というふうでした。そのうちで個人的に一番ウケたのは、u-nextで配信中の『リライト』(松居大悟監督、2025)でした。
https://www.imdb.com/title/tt36579051/

始まってすぐに、「あれ?これって『時かけ』(時をかける少女)なの?」と思ったのですが、それはすぐに終了してしまい(かつて『コンスタンティン』が、冒頭5分で『エクソシスト』をやってしまったのと同じように)、そこから怒涛の「おばか話」(ほめ言葉です!)に突入していきます(笑)。この展開、ゲラゲラ笑いました。舞台が尾道で、大友宣彦へのオマージュというか、尾美としのりや石田ひかりが出ているのもポイントです。

今年も一元論について考えたい

明けて2026、おめでとうございます。今年もいろいろな書籍や映画、音楽などに出会いたいと期待しています。というわけで、まずはこの年末年始の「年越し本」から。

まず、去年の夏ぐらいから、一元論のアプローチについて、いろいろ考えてみたりしていた、というのがあって、その流れで大森荘蔵『物と心』(ちくま学芸文庫、2015年)を見てみました。もとは1976年刊行の本。
https://amzn.to/3YGI3ul

自己の意識と外の世界の物質について、両者を区別するものは何もなく、両者ともに「立ち現れ」があるだけなのだとするラディカルな立場が示されます。でもこの「立ち現れ」そのもの(観念などを介さずに、直接的に触れること(?))が、なにやら釈然としない感じもありますね。

思うに一元論的記述は、たとえばなんらかの対象について、その対象に当事者として関わる人が抱く、情感や実感、細やかな現実認識といった、数字など客観的なデータでは捉えきれない部分を汲み上げるためには有効なのでしょうけれど(現象学などがそうだったりします)、あらゆるものが本質的にそのような構図で捉えられる、それがすべてだと言い切ってしまうとき、なにかまた別の問題を導き入れてしまうように思えます。なんらかの対象が想起されるなどのときの、その対象となるものは、いったい何だということになるのか(対象という言い方がすでにして二元論的ですが)、とか。

ちなみに文庫版の巻末の解説で、哲学者の青山拓央氏は、物に対する心を考える限り、立ち現れ論は観念論ではないが、他我に対して二義的に心を考えるとき、独我論的なものとして、観念論になってしまう、みたいなことを書いていますね。他我の関係まで一元化しようとするとき、はたしてその一元論は、論述としてそもそも成立しうるのでしょうか?ある種の詩にしかならないのでは?いずれにせよ、それはとても困難なものになりそうです。