マイクロ権力の先のほう

アリ・アスターの新作『エディントンへようこそ』(2025)を観ました。コロナ禍のマスク着用をめぐる不和が、市長選をめぐる分断と争いへと発展し、さらにそこから大きな暴走へと至る、というお話。てっきりペドロ・パスカルが主役なのかと思っていたら、話を織りなすのはホアキン・フェニックスのほうでした(笑)。
https://www.imdb.com/title/tt31176520/

これ、市長選を絡めているところがなかなか面白いですね。マスク着用のような、たわいなくとも身体拘束的な義務を課せられていることの是非から、データセンターの誘致をめぐる立場などへと、話が拡大していくさまが、微妙なブラック・コメディという感じで、なかなかいい味を出している気がします。ただ、町の選挙と言うわりに、町の広がりというか、選挙運動の規模感などは描けていない(描こうとしていない?)ように思えます。

同じような市長選の話でも、たとえばフランス映画の『バティモン5 望まれざる者』(ラジ・リ監督、2023)とかになると、古い集合住宅の立ち退き問題が絡んで、住民と行政の対立も、とても不穏かつ暴力的な扱いになります。
https://www.imdb.com/title/tt26255476/

ある種のドラマツルギーに引っ張られてか、コメディ色やアクション志向へとひた走る『エディントン…』に対して、こちらはある程度、リアリズムの方を向こうとしているわけなのですが、とはいえこちらも、ごくごく狭い世界での出来事であるかのように描かれていて、市長選の選挙運動の規模感などはきわめて希薄な印象です。選挙の結果も(はたして選挙が成立したかも含めて)描かれてはいません。

これらの作品での市長選というのは、いわばカリカチュアにすぎないのでしょう。それもあってか、市長がもつ権力もどこか「マイクロ権力」的です。『エディトン』では、そうしたマイクロ権力的ないさかいが次第にエスカレートしていく様が、そして『バティモン5』では、マイクロ権力の積み重ねが横暴さを増していくプロセスが描かれているという風でしょうか。前者の終盤、どこから弾丸が飛んでくるかわからないというホアキンの疑心暗鬼(このあたり、とてもよくできたショットでした!)と、後者の終盤の、苦痛に歪む臨時市長の表情は、なにやら表裏一体にも思えてきます。

現実と映画の枠

wowowオンデマンドで配信されている『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』(2024)を観ました。パレスチナ人の活動家とイスラエル人のジャーナリストが組んで、ヨルダン川西岸地区のマサーフェル・ヤッタという村でのイスラム軍の破壊行為を4年間にわたって撮影したというドキュメンタリーなのですが、うーん、これはなんとも凄まじい映像の数々。
https://www.imdb.com/title/tt30953759/

ドキュメンタリーを作ろうと意図したはずのキャメラがときおり捉えるのは、軍に追われて逃げる際の激しい手ブレの映像だったり、予告なしに現れて立ち退きを迫り、家屋を破壊する重機の映像だったり。

これほどまでの暴力行為、そして人々の抵抗。英国のブレア首相(当時)が7分間だけその地を訪問した直後だけ、暴力行為は一時的に止んだとのナレーションもありました。すべては上のほうで決定され、現場の住民たちはただひたすら蹂躙されていくだけ、というこの構図。とてもやりきれないものがあります。しかもこの映像は、ガザへのイスラエルの侵攻前のもの。このあと、事態はいっそう悪くなっていく……。

この、ほとんど製作者たちの意図とはかけ離れているであろうフッテージの数々は、もはや「映画」という枠から溢れ出ている、枠を超えている、としか言いようがありません。意図の外側で映し出される映像の荒々しさ、赤裸々さ。「作品」などという範疇を、もはや超越しています。

現実があまりに過酷であるとき、映画、というか映画の枠というのは、あまりにフラジャイルなものになってしまう、そんなことを思わせます。ドキュメンタリーであろうと、そこには切り取り方などのかたちで製作意図が入ってくるわけですが、そのようなものを吹き飛ばすというか、そこに見えている現実が枠に収まりきれずに、枠を壊して溢れ出てくるかのようでもあります。ドキュメンタリーの存立論のようなものを、つい考えないではいられません。

モナド的・一人称的

またしても物理本で(電子本が出ていないので)、『世界の独在論的存在構造』(永井均、春秋社、2018)を読んでいるところです。まだ半分ほどしか読み進んでいませんが、これはとても面白い一冊ですね。デカルトの「われ思うゆえにわれ在り」の「われ」つまり私は、厳密に考えるならば、対象化された私(の表象とか)などではありえず、私、と言いながらも、そこに具体的な対象のない、無内包のものでしかない……。いわばモナド的なもの、あるいは一人称視点を徹底したもの、というふうにしか理解できません。同書はこうした、ある意味誰もが感じていながらそうは語ってこなかった内実をあえて言語化し、それがいったい何であるのかという難問に迫っていこうとするエッセイ(試み)なのですね(こんな紹介でいいかどうかもわかりませんけれど)(苦笑)。
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その問題を考えるために、著者はいろいろな道具立てを用意しています。たとえばルイス・キャロルのパラドクス。PならばQが成立する条件で、PであるのでQである、という論理関係がある場合、最後の「Qである」を必然的にそうなると見なすのか、それとも可能性としてQでありうるのかと見なすのかで、話が変わってきてしまいます。で、必然として導かれるという話は、可能性の話につねに回収されてしまって、現実に到達できません。前者をアキレス、後者を亀とするなら、アキレスは亀を振り切って進むことができません。論理式では導けるはずのQに、現実としては至らないというパラドクス。神の存在証明の問題も、まさにここにある、というわけです。

そしてそれは唯一の現実として<私>(私という現実としての無内包のもの)についてもそうで、デカルトのようにいくら懐疑的なもの(欺く神によるもの)を取り除いていっても、最後に<私>が残るという部分(現実)は、そうした神の欺きによって欺かれることがありえない、ということになり、ひいては創造する神ですら、現実としての<私>には触れることができない、ということも導かれることに……。時間論の<現在>もまさに同じ構図になっている、と著者は力説します。

見事なまでに隘路をたどる旅です。それはなんとも刺激的で、晦渋に見える文章も、その実、たいそう共感できるものだったりします。

戯曲的な映画の愉しみ

基本的に映画は時間的・空間的な「移動」が基本だと思っていましたが、だんだんと年をとるにつれて、「動かない」映画、空間的移動が描かれない映画も、案外悪くないなと思うようになってきました。シネフィルを気取っていた若いころなどは、「こんなに動きがない映画なら、映画にする意味ないじゃん、戯曲でいいじゃん」なんて思っていたんですけどね(苦笑)。観劇に行かなくなって久しく、演劇作品に触れる機会があまりなくなっていることもあって、戯曲作品も映画にしてもらうことは、とてもありがたい気がします。もっとも、映画も最近はほとんど配信で観ているわけなんですけどね。

というわけで、先日アマゾンでの配信終了の告知を見かけて、あわてて観たのが『ザ・ホエール』(ダーロン・アロノフスキー監督、2022)。長いこと映画の世界から遠ざかっていたブレンダン・フレイザーの復帰作ですね(今劇場公開中の『レンタル・ファミリー』も評判いいですね)。娘役に、『ストレンジャー・シングス』のマックス役で人気が出た、セイディ・シンクも出ていました。
https://www.imdb.com/title/tt13833688/

大学のオンライン授業の講師をつとめる、極度の肥満症に陥った主人公の、人生最後の一週間が描かれます。舞台はその主人公の部屋で、ほとんど外の描写はないのですが、部屋を訪れる関係者たちとのセリフのやり取りで、そこにいたる背景やそれぞれの過去などが、とても巧みに浮かび上がって来ます。まさにそういう「見えている以外の部分」への想像というあたりが、戯曲的な映画の愉しみであると、改めて納得できます。

これは以前に観た一本ですが、『対峙』(フラン・クランツ監督、2021)というのもありました。高校で起きた乱射事件の犯人と被害者の、それぞれの親が、教会の一室で話をするという作品で、冒頭からすでにして張り詰めた緊迫感を感じさせます。
https://www.imdb.com/title/tt11389748/

舞台設定(教会での対話とか)などから、観ている側は、どこかの時点で許しの時を迎えるのだろうなと予測するわけなのですが、なかなかそうした予定調和にはたどり着きません。それほどに凄惨な事件だったことが伺えます。これも、事件そのものが描かれるわけではないので、観る側の想像力を刺激し促すだけかのですが、そのあたりの緊張感こそが見どころという感じです。

さらに、最近観た『入国審査』(アレハンドロ・ロハス監督、2023)も、この分類に含めてもよいかもしれません。
https://www.imdb.com/title/tt22964884/

スペインからアメリカへ移住しにきた若いカップルが、入国審査で足止めを食らうことで、二人の関係性に変化が生じてしまう、というものですが、密室会話劇(入国審査の尋問)が作品の大きな比重を占めているからです。これもまた、画面に描かれない背景への喚起力がなかなか鮮烈です。文章ならば行間を読むとか言われますけど、映像がさりげなく指し示す外側部分というのも、ときにとても味わい深かったりしますね。

ストア派と公共

ゆっくり読み続けているエピクテトスの『語録』。やっと4巻に入りました。それにしても、3巻の末尾の数章(とりわけ24章から26章あたり)は、これまで以上に身につまされる思いがsしたかも。ストア派のこの書が、ある種の人生訓として読まれるのは、こういうところがあるからなのだなあ、と改めて納得できます。でも、人生訓というところで止まってしまうのにも、なんだか違和感を感じたりします。なにか哲学を考える上でもったいないような気も……(?)
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内面的な苦痛をもたらすような諸要素(情念とか)に対して、それらが(あるいはそれらの原因となっているものが)自分の意思ではままならぬことを直視することによって、半ば諦めというか、あるがままを受け止め、そこからポジティブな方向にそらして、内面の平静を得ようとする(3巻26章など)、というのがエピクテトスのストア派としての基本的立場ですが、一方で自分が制御できる事象については、これを計画的に実行せよと説き、自身の家の管理から始まって、公共への奉仕や行政への参加を積極的に推奨したりもします。その意味で、そうした公共性・計画性を根底から拒絶する犬儒派などに対しては、たいそう批判的だったりします(3巻22章)。

それってつまり、官僚志向的(?)ということになるのでしょうか。でもそうすると今度は、社会の首長に仕えることはどうあるべきか、という側面が気になるところです。エピクテトスはさしあたり、支配者としての神については何度も言及していますが、組織的な首長のあり方そのもの、あるいはそうした首長への服従、あるいは組織のありかたなどについては、3巻までではあまり触れていない印象なのです(うーん、ざっと読みで見落としているのでしょうか?あるいはこちらの記憶から漏れているとか?)。残りの部分と、これまでの振り返りで、探っていかないといけません(苦笑)。