5月 21st, 2012 Posted in 古代後期からビザンツへ | no comment »
唐突ながら改めて思ったこと。アフロディシアスのアレクサンドロスはやっぱり面白い……というか、そのアレクサンドロスの注解テキストを解釈する研究も(が?)また面白い(笑)。アレクサンドロス自身がアリストテレスのギリシア人注釈家なわけだけれど、その読解そのものがさらに現代の研究者の解釈を呼び寄せている風で、なにやら二重三重に重ね塗りされている感じ。注釈が、もとのテキストをなんらかの形でこねくり回してみせる様が、なにやらとても興味深い気がする。以前にも、魂と身体、形相と質料の不可分性のようなことをアレクサンドロスが強調していて、しかもそれが区別されるのはあくまで認識の賜物であるといった、まるで唯名論の先駆けであるかのような議論をアレクサンドロスが展開している、みたいな話があった。で、今度は自然学絡みのアレクサンドロスの立場について、フランスの研究者マルヴァン・ラシッドがいろいろとまとめている。見ているのは『アフロディシアスのアレクサンドロス:アリストテレス『自然学』への失われた注解(四巻から八巻)−−ビザンツの注釈集』(Marwan Rashed, Alexandre d’Aphrodise, Commentaire perdu à la Physique d’Aristote: Livres Iv-viii, De Gruyter, 2011)の巻頭論文のさわり。
『自然学』の四巻というと、場所、真空、時間などが扱われている巻。で、たとえば場所論がらみでは、四巻三章についてのアレクサンドロスの独創的な(?)解釈が紹介されている。アリストテレスの本文でのこの箇所は、素直に読むなら、モノがそのもののうちに「内在」することが不可能であるということを論証し、「内在」はあくまで他のモノのうちで可能であるという話の流れになっているのだけれど(これはまあ常識的だ)、著者によるとアレクサンドロスはどうやら、モノは「偶有的に」そのもののうちに内在することはできないとアリストテレスが付言していることをもとに、当初の対立項は偶有的か本質的かであると見て、「他のモノのうちに」在るという選択肢を第三の道として取り出し、モノは「他のうちにある」なら、そのもののうちに内在できるという結論を導くのだという。わーお。なにやらややこしいが、身体の中の内臓が特定の場所に存在することを著者は例として挙げている。要はこういうことらしい。個々の物体が場所に存在するということを、アリストテレス思想では連続性と隣接性の区別で説明しようとし、モノが場所に在るということは、存在論的な密度の高いモノが、隣接する存在論的な密度の粗い場所においてみずから運動するということだと述べるのだが、そうすると身体の中の内臓のように「内在」するモノの場合、説明に詰まってしまう。アレクサンドロスはなんとかそれを解決し(ちょっと強引に解釈をこねくりまわして?)、ライバル視していたストア派に対するアリストテレス思想の優位性を高めようとしたのだ、と……。
5月 17th, 2012 Posted in 見・聞・読・食 | no comment »
田舎での遺品整理のために、またまた帰省してきた。しばらくは月1のペースぐらいでそういう雑務を続けることになりそうだ。うーむ、早いところ片付けてしまいたいものなのだが……。というわけで、今回の旅のお供はLoeb版のガレノス『治療の方法』の第一分冊(1巻から4巻まで収録)(Galen, Method of Medicine, Volume I: Books 1-4 (Loeb Classical Library))。まだ冒頭部分だけだけれど、医学がいわば他の諸学を巻き込んだ総合知であるみたいな信念が貫かれているようで、結構読み応えがある。また、病理の分類について、二項対立的に「差異」にのみ着目せよ、みたいなことを言っているのも興味深い。またこのブログ上でガレノス研みたいにしてまとめていくのもいいかもしれないなあ、なんて思っている。テキストの先は長いので、ゆっくり読んでいきたい。
今回はまた、「スピーキンググリーク」(Speaking Greek CD (Reading Greek) )なる音声教材をiPhoneに入れて新幹線で聴いてみた。アングロサクソンっぽい感じの、ちょっと時に子音とかがきついギリシア語発音のようだけど、移動時とかのちょっと退屈なときには、全体的にこういうリズムはやはりとても心地よい(ような気がする)。もとはReading Greekというテキストの音声教材。アリストパネスの喜劇などが効果音も交えつつ録音されていたりするし、プラトンの対話編からも抜粋されていたりするのだけれど、やはりなんといっても最後のほうのトラックに入っているホメロスが最強(笑)。ヘクサメトロンはいいなあ。願わくば、アシミルの古典ギリシア語教材のCDにあるように、もろに歌ってくれてもよかったのに、なんて思ったり。
5月 11th, 2012 Posted in 見・聞・読・食 | no comment »
15世紀ごろのフランドルの画家ジャン・マルエルの絵画をルーヴル美術館が買い取った話が、この間フランスのニュース(France2)で取り上げられていた。これ、オーヴェルニュの小村の主任司祭が暖房設備の新調(だったっけ?)費用を捻出するためにタダ同然で売り払ったという話なのだけれど、古物商を介してルーヴルは780万ユーロでお買い上げなのだとか。こちらの記事によると、「聖ヨハネと二人の天使がいるピエタ」というのがその作品名。ピエタというと十字架降架後の場面だが、これがいつごろから絵画の伝統になったのかが気になって、とりあえずざっとネットを検索してみる……と、すぐに引っかかるのがこちらのページ。これは素晴らしい解説。それによると、こうした形象についての教会の文献的な根拠というのはなく、ボナヴェントゥラなどは民衆の信仰心に帰しているのだとか。とはいえ、次のような流れがあるのだという。聖書外典のニコデモ福音書に暗示されている、降架後の息子を抱きしめたいとマリアが思ったという話が、9世紀のニコメディアのグレゴリオス、10世紀のシメオン・メタフラストスを経て、マリアがその思いを成就したという話になり、やがてそれは敷衍される形で広まり、マリア信仰が高まる12〜13世紀ごろになると、アンセルムスのおそらくは『真理についての対話』、偽ボナヴェントゥラ『キリストの生涯についての瞑想』などが典拠となって、そうした精神性に、より世俗的・視覚的な表現が与えられることになった……と。さらに同ページには14世紀からの表現の伝統もまとめられていて参考になる。
そういえば個人的に、ニコデモ福音書の仏訳本が読みかけのまま積ん読になっていたなあ……と反省する(苦笑)。
↓ジャン・マルエルというと、こちらの「円形の大ピエタ」が有名らしい。これもルーヴル所蔵。

5月 8th, 2012 Posted in 象徴史・物質論など | コメントは受け付けていません。
引き続き、ヨハネス22世とフランシスコ会士による、所有権をめぐる議論についての別論文を見る。今度のはジョナサン・ウィリアム・ロビンソン『オッカムのウィリアムの初期所有権理論』(Robinson, Jonathan William, William of Ockham’s Early Theory of Property Rights: Sources, Texts, and Contexts, University of Toronto, 2010)というもの。これも博論で長いので、とりあえず序文を見ただけ。でもすでにしてこの所有権をめぐる両者の応酬の複雑さが窺える。著者は教皇側の文書(教書)と、フランシスコ会派の応酬文書とを年代順の表にまとめているほか、その概要を序文で記している。それはざっとこんな感じ。教皇が『Ad conditorem』(1322年12月)を著す以前に、福音書の清貧、あるいはフランシスコ会派の清貧の考え方について多くの文献が書かれていて、教皇は教書『Quia nonnunquam』(1322年3月)では教会会議での議論を促そうとさえしているという。で、その『Ad conditorem』では、ベルガモのボナグラティア(1265〜1340)によるキリスト・使徒の清貧論など、多くの文献の議論が取り上げられているという。ボナグラティアはこれに反論の訴状を示すものの(1323年1月)、結果的にこの人物は収監され、『Ad conditorem』は書き改められて新版となる(1323年1月)。その後、教皇は『Cum inter』(1323年11月)を著し、今度は福音書の清貧問題を論じる。
次いでこれに神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世が参戦し(1324年)、さらにチェゼーナのミカエルがアヴィニョンから訴状を複数出す。ロングバージョン、ショートバージョンがあるピサの訴状などだ(1328年)(この間、ボナグラティア、ミカエルのほか、マルキアのフランシス、オッカムといった関係者たち4人が、1328年6月に破門されている)。教皇はそのショートバージョンに『Quia vir』(1329年)で対応し、さらにマルキアのフランシス、ミカエルが反論を記し、そしてオッカムが『90日の書』を著す(1332年)。ミカエルはヨハネス22世の議論の誤りを突く戦法、フランシスはピサの訴状を擁護する形、さらにオッカムもフランシスの方法を真似ているという。うーむ、こうして見ると(ま、実際の文献を見たわけではないのでナンだけれど)、最初はどこかオープンな構えだった教皇が、相手側の反応を受けて態度を硬化させていく感じが窺えるような気がする……。
5月 6th, 2012 Posted in 象徴史・物質論など | コメントは受け付けていません。
前にオッカムがらみでの所有権論の話を見たけれど、これに関連して、その論敵でもあったヨハネス22世の所有権論を詳細に論じた博論(PDFで公開されている)を、部分的に眺めているところ。メラニー・ブラナー『教皇ヨハネス22世とフランシスコ会の絶対的清貧の理想』(Melanie Brunner, Pope John XXII and the Franciscan Ideal of Absolute Poverty, University of Leeds, 2006)というもの。その所有権論には様々な要素が絡んでいるようなのだけれど、同博論は割と手際よく(?)捌いている印象だ。ヨハネス22世の論じる所有権論はあくまでも清貧論としての聖書解釈に力点が置かれているようで、基本的なスタンスはトマス・アクィナスの流れを汲み、どちらかといえば現実主義的な路線であるとのこと。完徳にいたるには、清貧よりもむしろ慈悲のほうが重要だとする立場であるらしく(これがもとはトマスの立場)、このあたりは、清貧が完徳の十分条件であるとするボナヴェントゥラと実に対照的。ヨハネス22世は清貧と完徳との関係を直接論じてはおらず、あくまで清貧が魂の不安を取り除く方途だとして、その不安(sollicitudo)の問題を前面に出して論じているのだという。やはりフランシスコ会士だったチェゼーナのミカエル(1270-1342)などは、キリストにおける清貧の完徳は所有に付随する不安を排しており、キリストはかくして私的な所有権をいっさいもたず、ここからdominium(所有権)と使用権を分けて考える可能性が示されていたというが、ヨハネス22世は、その場合の清貧の完徳はキリストの魂の状態を示しているのであって、非所有ではなく世間的な財への侮蔑こそが完徳を示す徴なのだとし、それを福音的清貧と呼んで、必ずしも消費財の所有(dominium)を排除するものではないと論じている……と。